「恋愛小説家と私」

  • あさみゆう

※音声作品用のテキストデータにつきましては、作者様のご了承のもと、L-boom編集部が加筆修正を行なっております。また収録に際しまして、声優やスタッフの判断により、改変やアドリブが加えられている場合がございます。


「海に行くぞ。すぐ出るから、支度して待ってろ」

 突然にヒロから、そんな電話がかかってきた時も、私は驚きはしなかった。
 また執筆に詰まったんだな。そう思ったくらいで。
 返事をする前に通話は切られ、私に選択の余地はない。それも毎度のことだった。

「書くことに詰まるとなんかデッカイもんが見たくなるんだよな。海とか山とか、象とか」

「私、せっかくなら動物園に行きたかったな。締め切りはいつなの?」

「来週」

「……間に合うのそれ」

 思わず隣に座るヒロを振り向くけれど、ヒロは微かに苦笑を浮かべただけだった。
 ヒロは眼前に広がる海を見ている。
 ……ふりをしながら、きっと妄想している。
 自分の世界にどっぷり浸かって、頭の中で今書いている小説の構想を練っているに違いない。

 ああ、くだらない。
 私はそんな時のヒロが一番嫌いだ。

 ヒロは恋愛小説家だった。
 もう四、五冊ほど、本を出版している。
 27歳でデビューして、30歳で仕事も辞めて、あとはただひたすらに書くことだけに熱中する毎日。

「おまえも読んでくれればいいのに」

「ヒロの本は、15歳の私には難しすぎるんだもん」

「そんなことないよ。俺の一途な想いがぎっしり詰まってるんだぞ、あの物語の中には」

「気持ち悪い、余計無理」

「はは、酷い言い草だな。ま、今の子はくっついたり別れたりが激しいからな。一途にうんちゃら言われても、あんまりぴんとこないのかもな」

「そうかもね」

 ヒロの言葉に軽く頷きつつ、だったら、と思う。
 だったら私は七歳の頃からヒロだけを想い続けて生きてきたのだから、そりゃあもう一途だ。
 二十歳近く離れたおっさんを、今でもこんなに好きなんだから。

 きっとヒロよりも一途だ。

 ヒロの小説が読めない本当の理由は、難しいからじゃない。
 ヒロが書いたものならば、漢字がわからなくたって、言いまわしがややこしくたって、最後まで読み進めたいと思う。

 だけど無理だった。
 ヒロが描くのは純愛をテーマにした話ばかりで、主人公の女性はみんな、ヒロが愛した人がモデルなのだ。
 主人公の名前も年齢もストーリーも全て架空のものなのに、言動や行動で読み取れてしまう。


「もうさ、辞めちゃいなよ、恋愛小説なんて。自分の苦い恋愛なんて、紙に綴ってどうすんの? 書くならもっと夢があるやつがいいよ。ファンタジーとかさ」

「んー……俺は多分こっちのが合ってるんだと思う」

「気のせいだよ」

「気のせいじゃないよ」

 そうしてヒロは再び遠くを見る。
 まただ。また、ヒロは自分の頭の中だけの世界に入ってしまう。
 呼び止めなければという激しい焦燥にかられて、私はヒロの腕を掴んだ。

「くだらないよ!」

 不意に口をついて出た言葉は、多分私の本心じゃない。

「なんでわざわざ別れた人を主人公にするの!? そんな恋愛小説ばっかり書くの!? 昔の女のことなんか、さっさと忘れちゃえばいいのに! 紙になんて残したらずっと消えないじゃん!」

 そう言うと、ヒロはからからと笑う。

「俺は書くことが好きなんだ。リアルな人間を書きたい。まあ……元カノに似せてるつもりはないんだけどな。未練もないつもりなのに、なんで似ちまうんだろう? やっぱ……身近にいた人間だからかな」

 複雑な顔でそう呟いて、私の頭に手を置いた。
 ヒロの大きな手。
 ペンタコだらけの。

「そろそろ帰るか」

「帰ったらまた書くの?」

「もちろん。徹夜しないと間に合わないだろ」

「……どや顔で言うな、ばーか」

 彼は立ち上がった。
 防波堤に腰掛けながら今まで二人で海を眺めていたけれど、もう十分気分転換できたらしい。

 振り返って手を差し伸べるヒロ。
 それを掴まないのは、多分私の子供じみた意地のせいなのもわかっていた。

 ヒロは紙の上ばかり見ている。いつだってそうだ。
 だけれど私は、妄想の世界から抜け出せないヒロが、嫌いではないのだ。

 だって、私が見てきた彼はいつもそうだったもの。
 遠くのどっか不思議な空間を、子供のような無邪気な瞳で追いかけていたもの。

「いつか、私を主人公にして小説書いてよ。そしたら読んであげてもいいよ」

「おまえを? なんだかなぁ。幼稚な恋愛しか書けなさそうな気が」

「失礼なっ!」

「もう少し大人になったらなー」

 そう言って、ヒロは笑った。
 認めたくはないけれど、その顔は無精髭がよく似合う、妙に文筆家っぽい顔だった。