「揺るぎないもの」

  • 花草セレ

※音声作品用のテキストデータにつきましては、作者様のご了承のもと、L-boom編集部が加筆修正を行なっております。また収録に際しまして、声優やスタッフの判断により、改変やアドリブが加えられている場合がございます。


 堅苦しい大理石の部屋に、淡々と少女の声が響く。
 メトロノームのように正確で、無慈悲で、冷たい声。
 細長く続くこの部屋の奥まで、カツン、カツンとよく届く。

「次、右。次、右。次、右。次、右」

 少女はこれ以上ない純白で、背中にはまばゆい羽根を広げていた。
 四隅の大理石は薄暗く、静かに少女を讃えている。
 この部屋には明かり一つない。
 息苦しいほどに窓一つすらない。
 少女の純白がちらちらと、輝きを部屋の全体へと放っている。


 細長いこの部屋は、廊下と教会を組み合わせたような、奇妙なつくりをしている。
 一筋に人々が列を成し、僕はその最後尾。
 背中の大扉が、おごそかに閉められた時は、背筋がぞわりとした。
 もう、外には出られない。そう告げる鐘の音が、遥か天井から聞こえた。

 そうして、最前列にはかの純白な少女。
 その背には二つの扉が開かれている。
 どちらの扉も黙しており、その奥は深淵を覗くように暗い。
 列を成す人々は順番に、左右の扉へ振り分けられていく。

「次、右。次、右。次、右」

 一歩ずつ列は進むのに、少女の姿は依然、掌へ乗る程に小さい。
 僕たちは一様に長く白い服を着て、足は裸だった。
 大理石の床は、足の裏から無限に体温を吸い取れるのか、いつまでも冷たい。

 そして、誰もが両手でようやく抱えられるかという大きさの、ガラス製のハートを持っている。
 もちろん、僕も。
 ガラスは薄氷色だというのに暖かくて、目を瞑れば橙の影が見えた。
 抱きしめればじんわりと温い。

「次、右。次、右。次、右」

 目を凝らせば、少女は僕たちが抱えているこのハートを、一人一人測りとっているようだった。
 手には黒金(くろがね)のものさし、闇を飲み込む程の純黒(じゅんこく)だ。
 少女は寸分違わぬ動作で、ハートへものさしを当てている。
 列が一歩、また一歩と進んだ。少女の声が、メトロノームの声が止めどなく響く。

 その時、いっとう甲高い声がこの部屋中を駆け巡った。

「嫌よ、わたしは左の部屋には行きたくないわ」

 声はそれきりだった。
 純白の少女が「次」と告げれば、叫び声を上げた女は黙々と左の扉へと進んで行く。
 奥の深淵へ、川の流れるように吸い込まれていった。

 そこで、ようやく僕たちは気がついた。
 目の前に座す純白の少女が何をしているのか。
 牢固(ろうこ)たる黒金のものさしで、何を測りとっているのかを。
 濁(にご)りだ。
 僕たちが抱えるハートの、ガラス色に染み込んだ濁りの大きさを測っている。
 
 ぱっと一斉に、誰もが辺りを見回し始めた。
 濁りは人によって違っていた。
 ハートの中心が深く黒ずんだ女性、薄っすらと全体が灰がかった、くすみみたいになっている子供。
 転々とカビのようにこびりついた青年もいる。
 大丈夫、大丈夫と唱える中年の女性、必死に両の太い腕でハートを覆う老人と様々だ。
 だけれど、誰一人として列を抜けることはできない。
 足だけは、一歩、一歩とメトロノームの声に付き従う。
 少女の淡々とした声は、淡々と、淡々と掻き消されずに響いてくる。

 僕のハートにも、中央に拳大の濁りが一つ、沈んでいた。
 見回せば誰もそのくらいだ。
 中くらい、平均的な大きさ。
 少女に左と指揮されたのは余程濁りの大きな人ばかりだから、きっと大丈夫。
 大丈夫、大丈夫。
 淡々と列を進んだ。
 もう数える程しか人が残っていなかった。

 ふと顔を上げて、改めて少女に見惚れてしまった。
 潔白を表すばかりの透き通る肌、髪。
 襟元正しく着込まれた礼服。
 秩序立った羽根の一枚、一枚が神々しい。
 表情は無く、口元ばかりが淡々と、淡々と時を刻む。
 時計の針でさえ、こうも寸分違わずに動けるものだろうか。

 後、四人。
 僕は気がついてしまった。
 純白たる少女の足元には、誰よりも深い濁りが染みついていることに。
 辺りは突き抜けた白さの大理石であるのに、ちょうど、少女の座する辺りばかりは、焼け焦げたように濁り、いや、穢れがこびりついていた。

「次、右。次、右。次、右」

 次は僕だ。
 そう思った時、世界を切り刻まんばかりに鐘の音が鳴り渡った。
 瞬間、辺りは真紅の夕暮れに包まれる。
 窓の一つもないのに。太陽よりうんと紅い、不気味な色合い。
 メトロノームの声がぴたりと止んだ。

 僕は呼ばれなかった。
 一面が警告色の赤に包まれる。
 少女は初めて立ち上がった。
 黒金のものさしを胸元へしまう。
 かつん、かつんと踵を鳴らして、僕へと歩み寄る。

「ごめんなさい。一日、五千七百六十人と決まっているのに、一人多く数えられてしまったのね。大丈夫。明日の朝一番はあなたよ。今晩は、申し訳ないけれどここで夜を明かしてちょうだい」

 言うなり、少女はにいと蠱惑(こわく)的に微笑んだ。
 純白が夕暮れに染まっている。
 そのせいかもしれない。
 背格好は無垢な子供であるから、余計に背筋が震える。
 
 辺りは紅(くれない)が抜け、海へ沈むように、ゆっくりと薄闇が染み始めていた。
 星一つない夜に、少女の純白が、月食(げっしょく)だけが浮き出て見えた。
 青味すら感じる、生気のない白さ。
 僕がぽかんと立ち尽くしていると、少女は少女らしく、くすりと笑った。
 今度はイタズラでも始める、無邪気な子供みたいで、かえって不気味だった。

「夜の終わりに鐘が一度、始業のためにもう二度鳴るわ。それまで、自由にしていて」

 すとんと、糸の切れた人形よろしく僕は座り込んでしまった。
 立ち尽くしたせいか、恐怖のためか。
 足は根元から酷く痺れている。
 胡座をかいた姿勢のまま、少しも動かせやしない。
 


 抱えていたガラスのハートを大理石の床へ寝かせると、両の指もがたがたと震えた。
 深い闇に、少女の純白だけが輝いている。
 一つ違うのは、その輝きが一所(いっしょ)に留まっていることだ。
 もう、手を少し伸ばした先も見えない。
 漆黒に飲み込まれてしまった。

「お待たせ、もういいわ」

 少女の愛らしい声に辺りが湧き立った。
 潮の香り、波の音。
 喧騒を身にまとった純黒の少女が姿を現した。
 小麦色の肌、騒々しい服装に泡立った金の髪。
 意地悪く吊り上げられた口元は、濃い紅色をしている。

「おっそいじゃない。愛想つかされちゃったと思ったわ」

 言うなり、少女は純白の少女へと抱きついた。
 露わにしたヘソや鎖骨を擦り付ける熱い抱擁、頬へ数度の口づけ。
 純白の少女はされるがままだ。

「一人、多く寄越されたの。死人の数もきちんと数えられないだなんて、堕ちたものだわ」

 見て、と指をさされる。
 白線の人差し指。
 純黒の少女は興味なさげに「へえ」とだけ呟く。
 こちらを見もしない。

「堕ちただなんて、あなたが言えたクチかしら?」

 二人の唇が重なる。
 血色の紅が共有されて、ねっとりと互いを引き止め合う。
 暗がりに引かれた一筋の紅があんまりに妖美で、艶めかしくおどろおどろしくて、悪い夢でも見ている気分だ。
 唇では物足りないとばかりに、純黒の少女は、体の隅々までを貪り始める。
 純白の少女はぼうと惚けたまま、唇へ移された紅を指先で掬い上げる。

 潮の香りが、波の音が強くなる。
 目を凝らせば、波は純黒の少女がまとっていた。
 うねり、波打つ羽根。
 闇の原液が蠢いているように見える。
 先程まで静かであったのに、いまや嵐とばかりに騒々しい。
 真白い泡がぶくぶくと泡沫を飛ばす。
 乱れた呼吸さながらに波打ち、踊り狂う。
 僕の方へも飛沫が飛んできた。
 濃い潮水(しおみず)の匂いがして、触れた指先が焼けるように痛んだ。
 ぽつり、ぽつりと焦げ目がつく。

 それは純白の少女も同じであった。
 海様の羽根に溺れ、体の至る所が焦げ付いていく。
 いや、錆びついていく。
 突き抜ける程の白さは潮波に揉まれ、乱され、そこかしこが穢されていた。
 純白の羽根は濡れそぼり、力なく潰れている。
 容赦のない口づけが真紅の目印を焦げ色に重ねた。
 執拗に胸へ、腹へ、羽根へ。
 少女達の荒々しい呼吸が、溺れ狂う吐息の掠れが、長広い部屋を何度も反響し、歪み、彷徨っている。

「愛しているわ」

 灰色の重ね声に、波が静かになる。神々しい鐘の音が一度、闇がするすると抜けていく。

「時間は嫌いよ。融通が利かないったらないわ」

 小麦色の指を唇へ押し当てて、宙へ口づけを放る。
 純黒の少女はもとより更にはだけた衣服を気にもせず、どろりと消えてしまった。
 それでも、まだ潮の匂いが鼻に残っている。

 一方、純白の少女は挨拶も返さずに襟元を正していた。
 自らの羽根を一枚抜き取り、髪を、服を払う。
 さらさらと焦げか、あるいは錆が落とされる。
 それらは少女の足元、深い深い濁りへと吸い込まれ、同化していく。
 それから黒金のものさしを胸元から取り出した。
 すっかり、錆びついている。
 水底に長く溺れていたように全身が焦げた色をして、表面はざらざらと歪だ。
 これではとても使えない。

 そこにも、少女は自らの羽根をあてがう。
 ヤスリをあてるように少し力を込めて。
 ざりざりと、削れる音が聞こえた。
 何度も、何度も。
 大量の削り屑が少女の足元へ、濁りへと散らばる。

 黒金がもとの光沢を取り戻した時、始業の鐘が流れた。
 足が無意識に立ち上がる。
 指がガラスのハートを抱え込む。
 僕の後ろへ黙々と、淡々と人が並び始める。
 僕は最前列、少女と対峙する姿勢で、直立のまま動けない。
 鐘がもう一度、遥か遠くに扉の閉まる気配がした。

「次」

 少女はすっかりもとの純白で、淡々とした表情を僕に向けた。

「このことは秘密よ」

 誰にも聞こえぬか細い声が僕の耳を撫でる。
 少女は僕のハートへ黒金のものさしを当てがう。いや、あてがうフリをした。

「左。次」

 メトロノームの淡々とした声に、僕は従う他なかった。