「少しずつ死んでいくあたしと、それから」

  • 七野青葉

※音声作品用のテキストデータにつきましては、作者様のご了承のもと、L-boom編集部が加筆修正を行なっております。また収録に際しまして、声優やスタッフの判断により、改変やアドリブが加えられている場合がございます。


 しょきしょきとハサミの切れ味はすばらしい。
 美容師さんは鏡越しに笑顔を見せている。

「最近高村さんは、彼氏さんとどうなんですか?」

 そう聞かれたあたしは、はっと一瞬の思考停止をした。

 彼氏、彼氏……ははあ、あいつのことだな。

「この前、彼氏さんもこちらに来て、パーマ当ててましたよ。どうでしたか?」

「いやあ、まだ見てないですね。ここ最近会えてないんですけど、仲良くやってますよ」
 
 あたしはにこやかに答えた。


 あいつはダメダメな男だった。
 出会ったのは大学生の頃で、彼氏だったのもその頃の話だ。
 サークルで知り合ったあいつは、いわゆる聞き上手ってやつで、自分の話はしないくせに人の話を聞いて、楽しそうにカラカラと笑う。

「たんぽぽみたいなやつだねー」

「俺が? 高村さんは変な感性の持ち主だね」

ジョッキグラスを片手にあいつは笑った。
お酒の似合う、たんぽぽだ。

それから、もしくはもっと前から自動的に恋は始まっていて、あたしとあいつの、わたがしみたいなふわふわした生活がスタートした。
特別イケメンってわけでもないし、身長もそんなに高くない。
猫背だし。
だけど、あたしは幸せだった。

 ファッションに興味がないあいつは、真っすぐな髪の毛だって目が隠れるくらい伸ばしっぱなしだ。
 だけどあたしが切ってほしいって言ったら切るし、何かしてほしいと言ったら絶対それをしてくれた。

「髪くらい切ってきなよ。あたしが行ってるところ紹介してあげるから」

「分かった、分かった」

 美容室から帰ってきたあいつは、髪の毛がくるくるになっていた。

「……何それ」

「えーと、カットかな」

「それパーマじゃん。カットとパーマ分かんなかったの?」

 私は吹き出した。
 どうせ適当に「お任せで」とか言って、美容師さんにそそのかされるままに決定を下したのだろう。
 あいつは髪の毛の先をちょいとつまんで、じっと見つめていた。

「いいね。あたしは好きだよ」

「そりゃあよかった。美容師さんも、高村さんが喜ぶといいですねって」

 あいつは嬉しそうに鼻歌を歌い、洗濯物を取り込みだした。
 それ以来、あいつはその美容院の常連さんになった。
あいつはそんな風に、いつもぼうっとしてるくせに、やたらとくじらが好きだった。
そしてレーズンをちびちび食べながら、夜更かしをたくさんする人だった。

「録画しておいたくじらの特集番組を、真夜中に見るこの楽しみがわからんかね、高村さん」

「分かんない。全然分かんない」

あいつはレーズンをぽいと口の中に放り投げてもぐもぐしている。
あたしはその丸まった背中を横から見るのが大好きだった。

 別れようって言ったのはあたしだった。
 あいつは優しすぎた。
 あいつは人の意見や話を否定したりしなかった。
 全てを受け入れて、自分の欲を出していないように見えた。

「あたしのことを必要としていないでしょ」

「そんなことない」

「あたしのほうがあなたの気持ちを分かってる。あたしは必要とされてないよ」

 今になって思うと、全然そんなことはなかった。
 あたしは、自分のことしか考えられない小さな子どもだった。


 そんなこんなで、別れてからもうすぐ3年がたとうとしていた。
 就職して県外に出ていたあたしは、久しぶりにその美容院に立ち寄った。

「最近高村さんは、彼氏さんとはどうなんですか?」

 最初にそれを聞いたとき、あたしはどうしようかと迷った。
 もうずっと前のことだ、今さら過ぎる。
 言おうか、言わまいか。

「1か月くらい前でしたかね、彼氏さんが来たの」

「……え、そうでしたか」

「これから高村さんとデートですか? って聞いたら、恥ずかしそうに笑ってました。どこに行ったんですか?」

 ははあ。
 ここであたしはピンと来た。
 あいつのことだ、別れたことを言えずじまいになっているんだろう。
 楽しくやってますかって聞かれて、楽しいですと言うことしかできないあいつ。
 相変わらず、変わんないなあ。
 自然と笑みがこぼれてくる。

「水族館に行きました。大きなくじらがいる、青い水族館」

「え! くじらがいるんですか」

「あ、いや……サメの間違いですね」

 あいつのためについた初めての嘘は、とても下手くそだった。
 あたしはぺろりと舌を出した。
 それからと言うもの、帰ってくるたびにあたしはこの不思議なやり取りをするようになる。

「4月は、桜を見に行ったそうですね」

「そうなんですよ。それからたんぽぽ畑にも行きました」

「うらやましいです。今度はどこに行かれるんですか?」

「花火大会かなあ。あいつの浴衣姿が好きなんですよ」

「それ、彼氏さんも言ってましたよ。高村さんは浴衣が一番似合うって」

 別にあの頃に戻りたいとは思わない。
 恋愛感情なんてもうこれっぽっちもなかった。
 だけど、今だってテレビでくじらの特集があればそれを見てしまうし、真夜中布団にくるまってレーズンを食べるのは至福の時間になってしまった。
 不思議なやりとりをしているうちに、あたしの中の乱暴で子どもなあたしはいつの間にか消えてしまっていた。

 あたしの中で少しづつ死んでいくあたしと、少しずつ生きていくあいつや、これから出会うであろう他の誰か。
 そうやってあたしはあたしを構築していくのだと思う。

 あたしの一部は、こっそりとあいつの一部になるし、あいつの一部はこっそりとあたしの一部になる。
 そうやって、あいつの人生の中にひっそりとあたしも生きていく。
 人ってきっとそんなもんだ。
 不思議なやりとりはこれからも続いていくだろう。
 
 だからこれは、一生誰にも言えない、あたしとあいつだけの秘密の物語なのだ。