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一番幸せだった頃

ST

 (ここはどこだ? わからないが……なにやら懐かしいような心持がするな……)
 朦朧とした意識の中、和夫の心はとある農村に遊んでいた。
 確かに自分はここを知っていると言う確信があるのだが、ここがどこなのかわからない。
 だが、足は自然と小さな農家へと向かって行く。
(おや、あの婆さんも知っているような気がするぞ……)
 そう思いながら近づいて行くと、うつむき加減にしゃがみ込んでいた婆さんが顔を上げ、その目は見る見るまん丸に見開かれた。
「和夫! 無事だったのかい? 心配したよぉ!」
 婆さんは自分の名前を知っている、やはり知り合いなのか……。
 駆け寄ってくる婆さん、その体は見る見る大きく……だが、抱きしめられて気づいた。
 婆さんが大きいわけではない、自分が小さいのだ。
 鏡がないので全体はわからないが、見下ろした自分の体は二~三歳の幼児のものだ。
「良かったよぉ……」
 自分を抱きしめた婆さんはなんだかほっとする匂いがした。
「お爺さん、お爺さん」
 婆さんが辺りかまわず呼びかけると、爺さんがやって来た。
「おお! 和夫がいたか! 無事だったんじゃな」
「あの子達にも早く……」
「おお、そうじゃな、ひとっ走り行って来るとしよう」
 爺さんが飛び出して行ってからしばらくすると若い男女が走って来た。
 この二人ならば忘れるはずもない、父と母だ。
 だとすると、ここは二歳まで暮らしていた村なのだろう、まだ二歳だったのだからはっきりした記憶がないのは当たり前だが、なんとなく懐かしく感じ、自分の家の方向が無意識にわかったのも頷ける。
 どうやら二歳の自分は、何かの拍子に一人で出歩いて迷子になってしまっていたらしい。
 大人にとってはなんと言うことのない用水路や里山も二歳の子供にとっては危険がいっぱいだ、いなくなってしまった自分を、父母や祖父母が必死に探してくれてたのだろう。
 母が、そして父が自分を抱きしめてくれる……和夫は心の中に暖かいものが溢れて来るのを感じた、もうずいぶんと長い間感じたことのなかった暖かさ……和夫の目から涙がひと粒零れ落ち、それが呼び水になったのか、涙は後から後から溢れて来た。

      ▽     ▽     ▽     ▽     ▽

 昭和八年、矢島和夫はとある農村に生を受けた。
 昭和十年、まだ二歳の頃、父に連れられて東京に移り住んだが、父がまもなく仕事上の事故で死去、労災などという観念も薄かった時代、一時金のみで母子は放り出され、困窮の末に母も亡くなってしまった。
 六歳からは孤児院で暮らすようになったが、その孤児院も昭和二十年の東京大空襲で消失してしまった、そしてスリ、かっぱらいをしながら路上で暮らしていた時、財布をすろうとした手首を掴まれたのが縁で鳶の親方に拾われ、ねぐらと飯、そして鳶としての経験を得ることができた。
 経済白書に『もはや戦後ではない』と謳われた昭和三十一年、親方が亡くなると後を継いだのは息子、昔気質だった親方と違い息子は経営者気質、会社も鳶の『組』から土建会社に変わり、和夫の仕事も『鳶職』から『現場監督』に。
 そして東京オリンピックの招致が決まった昭和三十四年、和夫は二十六歳にして独立して土建会社を構えた。
 孤児院では年長の子による理不尽な暴力に晒され、明日まで生きていられるかもわからない路上生活、そしてスリやかっぱらいと言った悪事でその日の糧を手に入れる経験をしていた和夫は、『明日はどうなるのかわからない』と言う意識が強い、それゆえに自ら立ち上げた会社への執着も強かった。
 会社に生活の全てを賭けるモーレツぶりに加えて、多少の法令違反は意に介さない強引さ、掟破りも厭わないしたたかさ、狙った仕事は逃さない貪欲さ、そして高度成長の波にも乗って和夫の会社は急激な成長を遂げ行った。
 しかし和夫の『飢え』は満たされることがない。
 自らの結婚もライバル会社を傘下に収めるための政略に使い、息子が生まれれば厳しく躾けて帝王学を叩き込み、娘が長じれば将来有望と見込んだ若い政治家に嫁がせた。
 そうやって会社の存続、発展を図っても彼から将来への不安は消えることはなかった。
 大きな屋敷を構え、高価な調度品に囲まれ、毎夜贅沢な食事を楽しんでも、彼の飢えは満たされることはなかった。
 
 そして平成三十年も暮れ、一代で日本有数の建設会社を興し、その頂点に君臨し続けて来た和夫も八十五歳。
 八十歳を過ぎてもトップとして君臨し続けたが、数年前に病を得て、あらゆる手を尽くして治療に当たった甲斐もなく和夫は死の床に着いていた。

    ▽     ▽     ▽     ▽     ▽

「ご臨終です」
 それまで懸命に延命措置を施していた医師が、和夫の遺体に、続いて見守っていた家族に向かって頭を下げた。
 遺族に涙はなかった、頑固で身勝手な帝王として君臨し続けていた和夫から解放された思いが勝ったのだ。
 そんな和夫でも、たった一人の孫娘に対しては甘い一面もあった、唯一和夫の死を心から悼んだのは十六歳になる孫娘一人。
「おじいちゃん、なんだか微笑んでいるみたい……」
 改めて見れば確かに……そんな表情を見せることはめったになかったのだが……。
「おじいちゃん、あの世へ行っちゃう前に楽しい夢でも見てたのかな……」
 寝ても覚めても『会社・会社・会社』だった和夫がどんな夢を見ているのか、誰も想像すらしていなかった……。
「ねぇ、人は死んであの世に行くと、その人が一番幸せだった頃の姿になるって言うよね……おじいちゃんはいくつの頃の姿になってるのかな……」
 愛孫はポケットからハンカチを取り出して、和夫の目尻から流れ落ちた涙をそっと拭いてやった。

        (終)

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